1章9話

「あれ……レン。ってかアンタ達なにやってんのよ」
 青いジャージ姿のユウリは、上半身をテーブルの上に倒れ込むように置く、レンとタクマに気づくと、声を掛けた。
「ああ。ユウリか……ってか、お前が制服じゃなくてジャージって珍しいな。服装にはこだわるお前がそんな地味な格好でいいのかよっ」
「ほっといてよ。今まで明日のシミュレーション訓練をさせられてたんだから」
「……ああ。三十二階層討伐作戦か。もう明日なんだな……」
 そのことをすっかり忘れっていたレンは、彼女が明日の戦争に参加することを思い出す。
「やっとお前に追いついたと思ったら、もう遥か先まで引き離された気分だよ」
「何言ってのよ。あんた達もすぐに参加することになるわ……」
「いや……俺らはその前に殺されるかもしれねぇぜ」
 ユウリの言葉に口を挟んだタクマは真剣な表情で語る。
「まじでハンパないよ。ミサ姉さんの訓練は。こちとらたった半日でボロ雑巾にされたんだぜっ」
「へぇー。で、なんで2人ともそんなものしかないわけ?」
 彼女にそう突っ込まれたレンとタクマのテーブルの前には、湯呑と酢昆布が置かれているだけだった。
「しょっ……食欲がないだけだよ」
「どうせ、お金がないんでしょ? ……私のおかずを食べても良いわよ?」
 ユウリはそう言って親切に口元に咥えた箸をレンに手渡す。受け取った彼は右手でそれを握るとさらに盛ったマメに手を伸ばした。
「くっ……うう……かぁーダメだっ」
 その指先はプルプルと震え、小さな豆を掴むことができない。そればかりか、握った箸が手の中から零れ落ちて床に転がった。
「ちょっと。もう、汚いなぁ」
「文字通り、箸も握れねぇ……」
 レンとタクマは講堂をあとにした後、さっそくミサオの訓練を受けてきた。まだ自分のスパイダーが与えられていない彼らに、肉体トレーニングが与えられたことはいうまでもない。「軟弱なお前らがスパイダーに乗るなんて3年早い。早く機体に乗りたいなら、もっと強くなれっ」そう言って彼女が与えた筋トレメニューは異常なものだった。

「普通。2本の指で全体重を支えるトレーニングなんてするか?」
 タクマが血豆のできた指先をユウリに見せながら言う。しかし、彼女も自分の指先を彼らに差し出してきた。五本の指先すべてが固く変質している。
「お前、それ……」
「まぁ。ね。……でも指先だけでスパイダーを支えなくちゃいけない事って結構あるのよね。ほら、グラウンド・エデンって地下にあるでしょ? 上の階層に行くにつれて整備されていない場所もあるから、スパイダーの上昇噴射じゃあエンジンを痛める場合もあるから、壁をよじ登る必要があるのよ」
「へぇ。じゃあ、この訓練も意味のないものじゃなかったんだ」
 ユウリの言葉にレンは関心する。あのミサオのことだ。どうせ適当な訓練を言い渡して、好きにコキ使っているだけだろうと思ったのだが……。

「たしかに。私も最初はなんでこんなことやらなくちゃいけないのかと思うような訓練もさせられたわ。でもあの人のカリキュラムは一切の無駄がないのっ」
「あの人? ユウリ、ミサ姉さんと知り合いだっけ?」
「ええ。だって私の指導教官。ミサオさんだもん」
 レンとタクマが同時に驚いた。まさか、ユウリの教官もミサオだったとは。

「でも差別よねぇ。私の時は、成績最優秀だからってミサオさんが教官をやって下さったけど。レン達の時は成績最下位だからって。そりゃあ、あんまりよね……」
 第7期でレベル3となったユウリはその年の最優秀生徒だった。今日と同じ講堂で最前列に並んだ彼女が代表の祝辞を読み上げる勇姿を傍から見せられたあの時の光景が蘇ってきたレンは、たった一年でずいぶん差がついたもんだ。としんみりしていた。

「ユウリ。そろそろ夜の訓練に行きますわよっ」
 突然彼女の名前が呼ばれると、ユウリは手をあげた。
「ごめんなさい。レイア先輩。今行きます」
 ユウリはそう言うと、テーブルに置かれた自分の食事を大急ぎで済ませた。
「レン。早く指1本で体重を支えられるようになってね。じゃないと私、どんどん先に行っちゃうわよ」
「ずいぶんと可愛くねぇセリフだな、おい」
 レイア先輩と呼ばれた女性との元へ歩き出したユウリの背中にレンは小声で言うと、握力のなくなった右手を握りしめた。

「――いいよなぁ」
「なにが?」
 急に無言になったと思ったタクマが突然言い出したので、レンは彼の方を向いて尋ねたが、聞くまでもなかった。
 鼻の下を伸ばした彼の視線の先にはレイア先輩がいたのだ。
「ああ。噂のレベル4。金城レイア先輩か……」
 金髪の長い髪を靡かせて、ユウリと肩を並べてあるく女生徒をレンはじっと見つめた。

 翌朝、レンは朝早くから目を覚ますと、まだ眠っている同室のタクマを起こさないよう静かに自室を出た。
 なぜだかわからないが胸騒ぎがする。やはり、今日の作戦にユウリが参加することが気になって仕方がなかった。
 討伐作戦。彼女は本物の戦場に参加するのだ。また会えるという保証はない。頭の中を悪い想像が廻り、あまり眠れない。

 レンは人気のない廊下を抜けると、宿舎のテラスへと足を運んでいた。窓を開け、外に出た彼の頬を冷たい風が吹き抜ける。
 日の光というものがないこのグラウンド・エデンにおいて、朝焼けというあいまいなものは存在しない。天井を覆う巨大スクリーンは真っ黒の映像に点々と星を現す光が点在していた。これがきっかり6時には青空へと変化する。昼と夜の境目の曖昧な景色を見なくなってからどれくらい経っただろう。

 レンはふいに昔のことを思い出した。それは彼がまだ小学生の時、地上での思い出だ。同じ小学校だったユウリの事。当時の彼女は今とはまったく別の性格だった。
 あんなに活発に動き回るタイプではなく、どちらかといえば清楚で控えめな小学生。みんなに一目置かれていたことは今と変わりないが、それはまったく別の意味で。だった。
一言で言うならお嬢様。子供ながらに彼女は自分達とは別世界に住んでいると思っていた。それがあの日、いったい何があってあそこにいたのか。家族を失い。途方に暮れていたレンの手を引き、シェルターまで走り出した少女は、クラスで見たお嬢様とはまったく別人のようだった。それから今のユウリがいる。どうやら彼女は昔の記憶がないらしい。
 レンも彼女の過去について触れたりするようなことはなかった。当時のお嬢様キャラだったユウリとは口をきいたこともなかった彼にとって、下手に昔のことを話して彼女が変わってしまうことの方が怖かったからだ。

 勝手なことかもしれないが、レンは今のユウリが好きだった。

「おいおい。17歳でそんな顔するもんじゃないよ」
 突然声を掛けられたレンは、驚いて後ろを振り返る。そこにはダルそうに首を鳴らしながらこちらに近づいてくるミサオの姿があった。
「ミサオさんも起きるのが早いんですね」
「ナニ言ってやがる。今まで作戦会議に参加してたんだよ。これから眠るところさ」
「え? だってもう5時ですよ? 7時には朝の集合があるんじゃ?」
「ああ、まぁ……私はだいたい1時間半くらいしか眠らないからな」
 この人はやっぱりバケモノだ。毎日あれだけ厳しい訓練と会議に参加しながら、僅かな睡眠しかとっていないなんて……。とても自分には出来やしない。
「ん? なんだ。バケモノを見るような目ぇしやがってっ」
「いえ。タフな人だなと思っただけですよ……俺には絶対に出来そうにないっす」
「はん。ガキのうちから夜更かしする必要はねぇんだよ。お前らは伸び盛りなんだからな。たくさん寝てもっと強くなれ」
 もう何度彼女から強くなれと言われたことだろう。簡単に言ってくれるが、ユウリのような天才は別として、自分のような凡人が簡単に強くなれるわけがない。そんな彼の心を読んだかのように彼女が話しはじめた。
「ゆっくり強くなって行けばいい……なんて言う教官もいるが、私はそうは思はない。お前だって明日戦場に行けと言われるかもしれないんだ。私は過去にそうやって実力のないまま戦場に出て死んでいった仲間を何人も見ている。時間は待っちゃあくれねぇ。一日一日精一杯生きて、全力を尽くせ。確実に來るその明日に向けて……な」
 確かにレベル5である彼女はレンの知らない壮絶な闘いを何度も経験しているのだろう。だとしてもやっぱり彼の答えは、「簡単に言ってくれる」だった。
ミサオもまたその天才の一人なのだ。だからここまで生きてこられたのだろう。だが彼女のように才能がある者ばかりではない。努力で強くなれるならレンもとっくにレベル3になっていた。でも、だからといってあきらめるつもりもない。彼女の言うように一日一日を精一杯努力するしかないのだ。

できる、できない、じゃない。やるしかねぇんだ。

 それがこの世界で生きていくために必要なもの。この世界に生まれてしまった自分達に課せられた使命。いつ死んでもおかしくないし、称賛されることもない。それでもやっぱりやるしかないのだ。
 レンはそれが分かっているからこそ、ユウリのことを心配に思っていた。彼女は平然を装って入るが、内心では不安で一杯だろう。いかに天才だろうが、17歳の少女には荷が重すぎる使命だ。

「心配か?」
「え……」
「顔に書いてあるぞ。ユウリの事が心配でたまらないとな」
 ミサオはニヤニヤ笑いながらそう言うと、レンは頬を赤らめた。
「そりゃあ、友達が戦場に行くのだから心配しますよっ」
「ふーん。トモダチ、ね」
 彼女は含みのある言い方をするが、それに付き合う気にはなれなかった。レンはミサオから視線を外すと、真っ暗なスクリーンを見つめる。

「まぁ、あいつなら大丈夫だろ。23階層もそれほど難しいわけではなさそうだしな」
「そうなんですか。レベル5が出動しないのはそう言う経緯があるからですか……」
「さぁな。まぁなんにせよ。今回は私の愛機の出番はなさそうだ。……そうだ。お前が絶対に機体を動かさないと約束できるなら、当日私の機体から彼女と交信しても構わないぞ。お前だって戦況が見たくて仕方がないだろう?」
「っ」
 レンは驚いた表情で彼女を見つめ直した。まさか彼女がそんな提案をしてくれるとは思っても見なかったのである。
「ただし、どんなことがあっても機体は動かすなっ。お前の力じゃあ戦場に行ってもなんにも変りゃあしない。むしろ足手まといにしかならないんだからな」
 レンは頷くと彼女と約束した。

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