1章10話

それから1週間が経った。
あの日以来、HBOはおろかG−Navでネットサーフィンすらしていない。
 ネットワーク機能を停止したG−Navは、ただのベッドとしての機能だけとなった。

 久しぶりに安眠したアキラは、今朝も快調に目覚めた。G−Naviは、寝ている間に精神だけをネットワークの世界に送る装置である。体は安眠の状態となるため、健康を害することはないらしいのだが、やはり何も考えないで眠るということが一番健康に良いことだとアキラは思った。
 たとえそれが気分だけの問題だとしても、だ。
 
 玄関の扉を開けると、恋人の優奈が待っていてくれた。この1週間、毎日彼女と登下校を共にしている。
 彼女は、あんなことがあったにもかかわらず、次の日からけろりとした顔で登校してきた。とはいっても、心の奥に傷を負ったままではあるのだろうが……

 アキラもその話には触れない。もちろん、事情を知らないはずの空や香、燐菜も同様だった。
 彼らもあの日『青天木馬』が敗北して以来、HBOの世界へはログインしていない。
 その『青天木馬』も『紅蓮魔道会』によって事実上、解散させられてしまった。
 
 そんな状態の中、『青天木馬』の大将は、いまだにオンラインになっていないそうだ。彼がいれば、もう少し戦況も違っていたのではないか。そうアキラは考えていたが、今さら過ぎてしまったことを話しても仕方がいない……

 現実での平和な日常に、彼らはHBOの存在すらも忘れかけていた。この世界には何百というオンラインゲームがあるのだ。その中の1つ、たかがゲームの世界での出来事。誰もがそう思っていただろう。ただ一人、アキラを除いては……
 彼だけがまだ、あの世界の事を考えていた。それもそのはず、彼はとあるアイテムを所持したままずっとオフラインの状態を保っているのだから。
 そのアイテムは『血約の証』。『紅蓮魔道会』の象徴にして、伝説の種族『ドラゴン』への進化の鍵を握る代物だ。

 3か月間、『紅蓮魔道会』がそのアイテムを失った状態を保っていた場合、システムが自動的に敗北とみなし、強制的に解散されてしまう。彼らの進退を握っているのはアキラなのだ。
 そして、その期日があと3日に迫っていた。
 
――このままオンラインしなければ、やつらは勝手に壊滅する……

 あの高尚な悪魔のような女がこのまま黙ってその日を待っているのだろうか?
 そう、アキラは不安を抱えて過ごしてきた。
 だが、そんなアキラの気持ちとは裏腹に、何も起きることなくこの1週間が過ぎていった。

 そして、今日も何事もなく一日が終わりを告げる――はずだった。
 学校が終わると、アキラはユウナと一緒に帰宅していた。
 幼馴染のユウナとは自宅も近い。彼女の家との分かれ道で、アキラは『さよなら』を言って手を振った。
 少し前なら、夜中もHBOの世界でまた会うので『またあとで』が合言葉だったのだが、あの日以来そんな言葉を使わなくなっていた。
 
 ユウナが遠くなるのを確認したアキラは歩きはじめる。といっても、実際自分の自宅はすぐそこに……
 アキラは思考を停止した。なにもかも、全てが吹っ飛ぶほどの出来事が起こっていたからである。
 アキラの自宅前には大勢の人だかりができている。それだけでなかった。彼ら野次馬どもを取り押さえる警察官もいる。
 そして、彼らの視線には燃え盛る炎が轟々と唸り声をあげていたのだ。
 黒々とした煙を上げているそれに目を凝らすと、大きな黒い影が見える。それがアキラの家だと分かると、アキラは恐る恐る自宅へと近づいていく。

 野次馬共の視線が彼に集まる。どの表情も哀れみが込められている。
 一戸建ての家、丸ごと全焼している事実を確認したアキラは、そこで恐ろしい不安がよぎった。

――母さん、美雪、それに父さん……
 
 アキラの大切な家族のことを心配していた。
 彼の母親は専業主婦で自宅にいたはず。妹の美雪だって学校から帰っていたはずだ。父親は仕事から帰っていた可能性は少ないが、それでもゼロではない。

 誰も家にいなかったはずはなかった。もし、この家の中に取り残されているのなら……
 絶望的だった。もはや家全体に火は移り、助けに入る隙間すら見当たらない。
 これがHBOの世界なら多少HPを削ることにはなるが、道を挟んだ瓦礫を切り裂き、閃光のごとく中へ入って、彼らを救えただろう。
 だが、現実の彼はただの高校生。彼にできる事などなかった。

 近くで消防隊員が彼の自宅に水を放出している。しかし、焼け石に水だ。
 彼らは炎を鎮火することを目的としていない。隣の家へと炎が燃え移るのを防いでいるだけなのだ。火が自然に鎮火するのをただじっと待つことしかできない。
 
 アキラは、燃え盛る我が家をじっと見つめると、崩れるように膝をつく。
 そんな彼の様子を離れた場所から見ている者がいた。

「明っ!」
「っ!?」

 驚いた彼が声のした方を見ると、野次馬から外れた場所に黒塗りのセダンが停まっていた。
 さらに、その後部座席の窓から身を乗り出した父の姿があった。

「父さんっ!?無事だったの?」
「ああ。皆無事だ。事前に奴らの情報を察知していたからな……
 母さんと美雪は保護してある」

 アキラの父親は表向きは警視総監だが、もう一つの顔がある。それは国内で唯一のテロ対策チームの指揮を執っているのだ。

「やつらって?これってテロリストの仕業なのかよ?」
「そうだ。お前も良く知る『紅蓮魔道会』のなっ」
「な……」

 アキラは父親から『紅蓮魔道会』という単語が出てくるとは夢にも思っていなかった。それだけでない、アキラがHBOをプレーしていることは、彼には内緒にしていた。
 
 詳しい話は向かいながら話すと父親に言われ、アキラは彼の乗ったセダンに乗り込む。

「『紅蓮魔道会』って、ゲームのプレイヤーの集まりだろ?現実で、犯罪を犯すなんて……」
「どうかしていると思うだろう?普通のプレイヤーならそう思うだろう。だが、彼らの実態は中国系マフィアの集まりなのだからな……。
 警察に怪しまれない様、彼らはゲームの世界でやり取りをしているんだ。」
「マオ・リンが、中国マフィアっ!?」
 アキラの質問に、父親は苦い顔で彼を見つめた。
「そうだ。麻鈴(マオ・リン)は、その筋じゃあ有名な悪党の女ボスなのだよ。
――できることなら、お前には関わらないでほしかった……」
「?」
 思わぬ父のためらう言葉に、アキラが首を捻った。
 そこで、急に車が停止する。後部座席の扉が開くと、驚いたことにユウナの姿がそこにはあった。
「?なんで、ユウナがここにいるんだよ?」
「あのゲームでお前に関わっていたプレイヤーで身元が分かっている者を保護しているんだ……」
 そう、父親が説明する。
 ユウナはアキラに目配せすると、今度はアキラの父親に告げた。

「こんばんは。私達で最後ですか?」
「!?ユウナ。お前知ってたのかよ……」
「彼女には、お前に会う前に事情を説明しておいたからな」

 アキラはまだ疑問が晴れなかった。
「なんで、ユウナを知ってるんだよ?」
「……それは、俺が『青天木馬』の大将だからだ……」
「はっ?」
 思わず間抜けな声を漏らしたアキラだった。
 彼の父親はHBOのプレイヤー。しかもユウナが副大将を務める日本人最大の秘密結社『青天木馬』の大将だという真実を知る。
「ふざけんなよっ!じゃあ父さんはあいつらが中国マフィアだから、ゲームの中に潜入してたってことかよ?」
「……そうだ」
「じゃあ。俺やユウナのことも知ってて、それでも真実を教えてくれなかったのか?」
「……そう――」
 アキラの父親が認めようとするのを、ユウナが止める。
「違うよ。少なくとも、私はアキラのお父さんが大将だってことは知ってたわ。
 理由があってHBOの世界にいることも……」
「知らなかったのは、俺だけかよ……」

 アキラがそう言うと、彼の父は静かに告げた。
「すまない。お前達の邪魔をするつもりはなかった。」
 アキラはその点について何かを言うつもりはなかった。なぜなら『紅蓮魔道会』と揉めたことに関しては、アキラの自身の責任であり、父親は一切関わっていないのだから。
 しいて言うならば、事前に教えてもらえていれば、こんなことにはならなかっただろう……

 だが、アキラはそこまで考えて一つの可能性を思い浮かべてしまった。
「まさか……父さん。こうなることが分かってて、黙ってみてたわけじゃないよね?」
 彼が潜入調査として、あのゲームの世界に存在していたならば、当然『紅蓮魔道会』に接触することになるだろう。それなのになぜ、1プレイヤーとして秘密結社を作ったのか……

「すまん。どうかしていたな……。ゲームの世界とはいえ、自分の息子たちをおとりに使うなんて」
「くそっ!そういうことかよっ」

 アキラの父は『青天木馬』を作り、ゲーム内で『紅蓮魔道会』の討伐を図ろうとしていたのだ。だが、『青天木馬』では太刀打ちできないと知っていた彼は、偶然息子のアキラが『紅蓮魔道会』と揉めたことを利用しようとする。
 アキラ一人では敵わないかもしれないが、『青天木馬』が加われば結果は五分。そう判断していた。しかし、実際には見当違いで、彼らはあっさりと敗北してしまった。

「我々は『紅蓮魔道会』を解散させ、奴らのコミュニティの破壊と資金源の断絶を狙っていたのだ」
「資金源!?」
「うむ。交流だけなら他のVRMMOを利用すればよかったはず。HBOにはあって、他にないもの……それは」
「リアル・マネー・トレード」
 アキラとユウナが同時答えた。
「その通り。奴らは上納金と称して、下位組織からクエストのクリアポイントを集めていたのだよ」
「そういうことか。だから1つのクエストに寄ってたかって独占してやがったってことかっ」
 アキラの父親は真剣な表情で頷いた。
「500人以上いる『紅蓮魔道会』と下位組織。彼ら全体から巻き上げたポイントは相当な金額になっているはずだ。それを絶ちたかったんだが……」
 彼はそこで一呼吸間を置くと、苦笑いを浮かべた。
「結果としては、それ以上のものが手に入りそうだ。あのマオ・リンが『血約の証』を狙って、この東京に来ているのだから……」
 アキラとユウナは顔を見合わせる。

――あの女が自ら東京にっ!?

「ああ。奴らの内部に密偵者がいるからな、間違えない。」
「密偵者?」
 アキラの疑問には答えず、父はさらに話を続けた。
「このまま3日経てば、奴らは勝手に解散させられるだろう。
 それを防ごうとお前にちょっかいを出してくるはずだ。もちろんそんなことは俺が絶対にさせない。
 ――だが、お前に頼みがある」
「?」
 アキラは首を傾げたが、父親の申し訳なさそうな表情からある程度は想像できた。
「おとりに使っておきながら、こんなことを言うのも申し訳ないのだが……
 もう1度、HBOの世界でマオ・リンと闘ってくれないか?」
「やつらに『血約の証』を奪われてもいいのかよ?」
「かまわない。マオ・リンが逮捕できるならな……
 今彼女は日本にいる。日本からHBOに接続するためには、どこかのホテルに常設されたG−Naviを使用するはずだ。奴らが特定の時間に接続する場所が分かれば、利用しているホテルの端末が割り出せる。
 お前……たちには、なるべく時間をかけて奴らと闘って欲しい。その間に俺達が潜入場所を割り出して、あの女を逮捕するっ」
「ふ、ふざけんなっ!!」
 車内にアキラの声が響き渡った。ユウナも父親も無言で彼を見つめた。
「『たち』って、ユウナをまた奴らの前に出すつもりかよっ!
 これは俺の問題。俺一人で十分だっ。」
「アキラ……私は大丈夫だよ。アキラが簡単にやられないってわかってるけど、1人で全員とやりあうことは無理だわ……
それに、これは『青天木馬』の復讐戦でもあるのっ

だから、私も行きます」

 最後は、アキラの父親に向かって告げた。
 アキラは彼女の強い意志に蹴落とされ、それ以上何も言えなかった。

 アキラの父が局長を務めるMPC。日本で唯一のテロ対策組織である。
 アキラとユウナはその中の個室に案内されると、すでにソラ、カオル、リンナの3人が待ち構えていた。
「お前らも親父たちに呼び出されたのか?」
 近くにいたソラに尋ねると、3人そろって頷いた。

「これから、君たちにはHBOの世界に行ってもらいたい。
 俺達が現実から、アキラたちはゲームの中からマオ・リンを追い詰めて欲しい!」
 アキラの父は彼らにそう告げた。

 隣の部屋に案内される彼ら。そこには、ご丁寧にも6台のG−Naviが設置されていた。
「根回しが良すぎるぜ、親父。アンタ最初からこうなると分かってたんだろう?」
「まさか……ここにあるG−naviは、『紅蓮魔道会』の動向を掴むために利用していたものだ。」
「なるほど、だから6台も用意されているわけか……」
 アキラの疑問に父親は苦笑すると、部屋の奥を指さした。
「いや、6台であってる。そこにもう一人いるだろう?」
 アキラたちがそちらへ顔を向けると、全員が同時に叫んだ。
「あっ」
 彼らの視線の先にいたのは、背の高い黒髪の少年だった。
 彼のことは、この場にいる全員が知っている。

「ラインっ!なんでお前がここに?」
 ソラのセリフには答えず、彼は真っ直ぐにユウナを見て言った。
「お久しぶりです。ユウナ様。」
「ライン君。久しぶり。……ライン君ってもしかして私より年下?」
 ラインは黒の学生を着用している。胸に付いた校章に、中学校を表す『中』の文字が印字されていたのだ。
「ええ……俺は14です。」
「うっそー。ゲームでは大人っぽい雰囲気出してたから年上だと思ってたよぉ」
 ラインの実年齢を知ったユウナが派手に騒いだ。
 1度しか彼に会ったことはなかったが、ゲームの世界の彼はアキラから見ても年上だと思うほど大人びていた。だが、現実の彼はまだ幼さの残る少年の顔だった。

「彼も都内に住む中学生だったというわけだ。少なからず、彼もアキラと接点があるわけだしな……年の為に保護したのだ」
 経緯を説明したアキラの父親は、これからの段取りを話し始める。
「今、マオ・リンはHBOの世界にはいない。現実のここ、日本でアキラたちの居場所を探している。予定としては、彼女は今夜22時に『紅蓮魔道会』本部にオンラインすることになっている」
「ちょっと待て、どうしてそんなことがわかるんだよ?」
 アキラが父に尋ねた。
「車の中でも話したが、奴らの中に密告者がいるのだよ。彼の話によれば、今日の22時まではオンラインにならないそうだ。……もちろん確証はないがな」
 
 現在時刻は20時を過ぎたところである。後2時間もすれば、あの女がオンラインになる。
 アキラは自然に拳を握りしめていた。

「やつがオンラインになるまで、残された時間は短い。この間に、お前達は準備を始めてくれ!」
 その場にいた6人が一斉にG−naviに横たわると、HBOの世界へと旅立っていった。

――アキラ、巻き込んですまない。いち早く奴らの居場所を突き止めてやるからな。
 父親は、G−naviの中で眠る我が子を見つめて呟いた。

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